夜が深くなると、仕事場の空気がすこし変わります。窓の外では、春先の風がまだ迷っているように、広葉樹の枝を静かに揺らしていました。

先日、久しぶりに大型書店へ足を運びました。何かを探していたわけではなく、ただ棚の前を歩きたかった、そういう気分だったのです。平日の午後ということもあってか、店内は閑散としておりました。それでも文芸書の棚は整然と並んでいて、思いがけず手に取りたいと思う本が何冊かありました。こういう出会いは、検索では生まれないものです。

帰り際、ふとスマートフォンを眺めたら、またSNSに「街の本屋を守れ」という投稿が流れていました。何度目かの光景です。誰かが書店の閉店を悼み、誰かがそれに賛同し、誰かが社会の貧困を嘆く。その連鎖が画面の中で静かに渦を巻いておりました。

正直に申せば、私はずっと「いずい」状態でいます。

いずい、というのは東北の言葉で、体のどこかに砂が入り込んだような、言いようのない居心地の悪さを指します。何かがずれているのに、うまく言葉にできない感覚です。「街の本屋を守れ」という声に、私はどこか嘘のにおいを嗅いでしまうのです。

思い返せば、学生時代に通っていた本屋は、今の人たちが惜しんでいるものとは、ずいぶん違っていました。私が育った街は小さな田舎で、芥川賞の受賞作が平積みになることなど、まずありませんでした。棚の大半を占めていたのは、婦人雑誌、月刊誌、音楽雑誌、プロレス雑誌、そして大量のコミックス、週刊漫画誌。品揃えという言葉すら似合わないような、雑誌と漫画だけで構成されたような本屋が、あちらこちらにありました。それが当時の本屋の、ごく普通の姿だったのです。

その本屋が今、消えつつある。けれども考えてみれば、あの本屋を支えていたのは「情報」であったと気がつきます。次の号が出るまでの一週間、あるいは一ヶ月のあいだに起きたことを、人々は雑誌から得ていた。好きなミュージシャンの動向も、人気レスラーの近況も、流行のファッションも、見知らぬ料理のレシピも、すべては雑誌という媒体に封じ込められていました。それが広告収入という経済の水脈によって養われ、書店という場所を賑わせていたのです。

その水脈が、インターネットによって地下深く潜ってしまいました。情報はスマートフォンの中へと溶け込み、雑誌として成立していた要素のほぼ全てが、あの小さな画面に内包されてしまったのです。かつての本屋の賑わいの正体が雑誌であったなら、その賑わいはとうに役割を終えている。惜しむべき対象は、もはや存在しないのかもしれません。

むしろ気になるのは、今の書店の棚のことです。雑誌という量的なノイズが引いた後、棚に残ったのは単行本であり、専門書であり、研究者が書いた学術の仕事でした。以前よりも数は少なくなりましたが、棚はかえって澄んでいます。以前はコミック週刊誌の陰に隠れていたような本が、今は光の当たる場所に静かに立っています。

単行本や学術書の売上は、世間が言うほど激変していないのではないか——そんな気がしてならないのです。出版業界の数字を大雑把に眺めれば、確かに書籍も減っているとはいえ、雑誌の落ち込みとは性格が違う。雑誌の凋落は情報の機能が移転した結果であり、本の衰退とはまた別の話です。

本を買う人間は、いつの時代もある程度おります。雑誌を買っていた人が本を読むようになったわけではなく、もともと本を読んでいた人は、今も静かに本を読んでいる。その層は、さほど変わっていないのではないでしょうか。

「街の本屋を守れ」という声の背後に、承認欲求の匂いを嗅いでしまうのは、私の僻みでしょうか。雑誌と漫画で埋まっていたあの本屋を守りたいのか、それとも守ると言いながら、本を愛する自分という像を守りたいのか。もしかすると、惜しまれているのは本屋ではなく、本屋へ行っていた頃の自分自身なのかもしれません。

 広葉樹の枝が、また揺れました。
 春の夜は、やさしく問いを隠します。